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デジカメ気まぐれ旅日記

Silk Road 世界遺産 を訪ねて

その1 西 安 〜 敦 煌 

ご意見等お便りをお待ち致しております.

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 中国のシルクロードMap

今回はシルクロード西安から敦煌そしてトルファンウルムチまでの旅である。

西 安 〜 敦 煌

 シルクロードは西安から始まるむかしはここを長安・・・と言った。

 西安の城壁

 西安の人口は710万人中国でも西北地方で最大の都市です。ここの年間雨量は600mm都下それなのに私たちは大雨に降られてしまいました。

 

14kmに及ぶ西安の城壁

 

 

14kmに及ぶ西安の城壁

 

西安の街中には街路樹がいっぱい植え付けられていてエンジュ(アカシヤ)ポプラ、柳、そしてプラタナス等で街中が緑でいっぱいです。西安市の花はザクロ大きなザクロの木があちこちで見られます。

 この街を明時代に造られた高さ12mの城壁が西安を14kmに渡って取り囲んでいます。この城壁に設けられた城門はその数18箇所に及びます。この城門をバスや自動車が縦横に走っています。

 華清池

 唐の玄宗皇帝楊貴妃は恋の舞台としてこの温泉地華清池を頻繁に使っていた。

 華清池は西安から東に30キロ離れた驪山の麓にあります。

 

 

 

 

楊貴妃が入っていたと言う浴槽

 

玄宗皇帝が入っていたと言う浴槽

 

驪山は海抜1256m、風景秀麗なところで、三千年前の西周時代からの温泉の湯元であり、玄宗皇帝が初めて楊貴妃を召し上げたときに、先ず華清池の温泉に入浴させました。 今も驪山(リザン)温泉 として発掘された浴室などを見ることができます。

 秦始皇帝陵と兵馬俑 世界遺産

 西安郊外のある村で、1974年に農業用水をくみ上げるための井戸を掘っていた農民が奇妙なものを掘り出した。秦の始皇帝の権力の絶大さを今に伝える。 偶然無数の陶器の兵士や馬車を発見した。

 

秦始皇兵馬俑博物館の入り口と右は入場券

 

 

秦始皇兵馬俑博物館

 

 ここは秦始皇帝陵の東1.5kmに位置し、約2200年前秦始皇帝を永遠に守るために副葬されたものです。東西約210m、南北約60mにズラリと整列する兵馬傭(殉死者のかわりに埋葬した人形)の軍隊が整然と並んでいます。

第一兵馬俑坑

第一兵馬俑坑

かっては、軍隊と平行に盛られた土の部分に丸太が渡されており、その上に藁と土を屋根のようにかぶせて埋められていました。そのため木が腐るとかぶせていた土が落ちて、残ったものがあるものの多くの兵馬傭は粉々に壊れてしまいました。

6000体以上の兵士や馬の兵馬俑が出土しており、現在もまだ復元作業がおこなわれています。兵や馬の表情や衣装はひとつひとつ異なっています。

第一兵馬俑坑

第一兵馬俑坑

この発掘により明らかになったという当時の軍隊のしくみ。傭は発掘した配置そのままに並べられています。 長い間眠っていた傭の着色は、外気にさらされるとたちまちなくなるとんのことで。今では一部に当時の色彩がわずかに残すのみです。

 陶俑・陶馬の総計は7000体以上と推定され、1号坑のほかに、2号坑・3号坑も発見されています。ここにはまだまだ相当数の兵馬俑が埋没していると考えられており、これだけの大軍団の兵と馬の俑が、始皇帝陵の東1.5kmの地点に、始皇帝陵を背にして東を向いた戦闘隊形をとって並べられているのである。

第二兵馬俑坑

第二兵馬俑坑

第三兵馬俑坑

兵馬俑坑の発見者 揚 志発さん 写真集などを買うとサインをしてくれます

揚 志発さん のサインです

 また、実は最初にこの兵馬俑を発見した人『 揚 志発 』さんがこの秦俑博物館の陳列館(お土産物売り場)の名士・・・として写真集等の書籍や絵葉書などを購入するとそこにサインをしてくれています。

 碑 林 

 西安碑林博物館は西安城南門の東側にあります。碑林とは文字や図像を刻んだ多数の石碑を集めたとろを意味しています。西安碑林は昔の西安の孔子廟を基礎として1087年に建てられました。

 

 

西安碑林博物館

 

 

西安碑林博物館

 

 

西安碑林博物館の孔子像

 

 この博物館は石碑展示室、石刻展示室、臨時展示室の3つに分かれています。建築面積は約4000平方m、展示品は約3000点あります。

 大慈恩寺&大雁塔

 三蔵法師玄奘ゆかりの大雁塔です。 広場には玄奘の像が立っています。歴代の王朝が都を定めた長安。その長安で古都の雰囲気を演出しているもののひとつに大雁塔があります。塔は現在の西安の東南郊外にある大慈恩寺の境内にあります。

 大慈恩寺は648年、唐の第三代皇帝高宗李治が亡くなった母、文徳皇后の慈恩を追慕して建立した寺で、高宗の皇太子時代に立てられました。当時の大慈恩寺は僧房1897室、僧侶300人が集まっていました。しかし、唐代末期、戦乱のため焼き払われ、今の大きさは昔の十分の一に過ぎません。

 

大慈恩寺と大雁塔

 

 

 

大雁塔の上から西安市内を見下ろす

 

 

大雁塔の上から西安市内を見下ろす

 

玄奘三蔵の石碑

 現在の境内にある当時の建物は大雁塔だけですが、塔の前方には明代と清代の建物がが僅かに残っています。

 現在の塔は煉瓦造りの七層で、高さ64m、中に螺旋階段があり、階段は人が漸く擦れ違うことができるほどの幅ですが、最上階まで登ることができます。また、各層には正確に東西南北の四方に窓が開いてここからは西安の街並が一望できます。

 敦 煌

西安から敦煌まではプロペラ機で2時間50分約1700kmのフライトである。ここ敦煌は甘粛省の西方祁連山脈の北側に位置している。 

敦煌は日本の秋田県と同じ緯度に位置しており、面積1,398平方kmのオアシス都市である。人口は18万人でその内12万人は農業であり、棉花、とうもろこしの栽培が中心であり、年間の総雨量も40mmと少ない。住民の95%は漢民族であるが残りは10の少数民族が住んでいる。

 

敦煌駅は敦煌の街から北へ90kmの所にある

敦煌からは西へ玉門関からはシルクロードは天山山脈を天山北路と天山南路に分かれている。

敦煌は東西貿易のの中継地であり、華戎が交わる所の一都会・・・といわれた。すなわちここで西域の商人たちと漢民族の商人たちが交易をしたのである。

またここで、西の中央アジア、西アジア、インドからは建築、絵画、彫刻のほかに楽舞なども伝わって来たのである。

そのほかに、仏教、マニ教ほかの宗教もここから東の方へと伝わって行った。世界で影響を与える文化体系は、中国、インド、ギリシアとイスラムの四つしかない。そしてこれらの四つが交じりあい流れ込む所はここ中国の敦煌と新彊以外にはない。

 敦煌莫高窟 世界遺産

 敦煌莫高窟は敦煌市から東南に25km、鳴砂山の前の宕泉川に沿って南北1,680m、高さ15m〜30mの岸壁に沿ってびっしりと仏教石窟が並んでいるのである。莫高窟には735窟り、その他にも古代僧侶たちが生活をしていた洞窟も数多くある。

 

敦煌莫高窟

 

 

 

敦煌莫高窟

 

敦煌莫高窟

 

この96窟中には高さ 35.5mの大仏像 が安置されている

これは初唐の618〜705年にかけて造られてものである。

ここでは岩山が地震で崩れたためにほとんどの

正面部分は補修されたものである。

敦煌莫高窟

また中唐(763〜820年)造られた158窟には

その大きさが 16mもある涅槃像 が安置されている。

鳴砂山と莫高窟の遠景

 莫高窟の造営はは紀元366年から始まったとされ、北涼時代から始まり元の時代まで1,000年間に渡って続いた・・・と言われている。その内現在では492窟が残っており、その中に彩塑が2,400体余り、壁画は合計で45,000平方mにも及ぶと言われている。

中でも最大の大仏はその高さ35.5mもあり、ここを訪れる観光客は年間60万人におよぶとか。

しかし、これらのものもイギリス、フランス、ロシアや日本の探検隊に持ち帰られてしまった、そのほかにも略奪されたものも多くあっていまに残っているものは僅かでしかない・・・という。

 前漢時代の万里の長城と玉門関

 敦煌市から西北102kmの所に古代中原と西域各国を繋いだ拠点の一つがここ玉門関であり、この関所の間を万里の長城で繋いでいる。

玉門関は古代西域で採れた玉などを運んでいた事もありこの名前が付けられた・・・といわれている。ここは高さ10m、東西24.0m 

南北26.4mで面積は630平方mあり、西と北に門が造られていた。これがシルクロードの古道でありここは111年から約1,000年の間使われた・・・と言われている。

 

漢時代の万里の長城跡

 

 

漢時代の万里の長城跡

 

漢時代の万里の長城跡と右は玉門関

 

玉門関の内部

 

玉門関の内部

 

5km毎に造られていた・・という狼煙台 

 また、紀元前121年酒泉郡がつくられた事から前漢王朝は20年の歳月をかけてこの万里の長城を造った。いまは殆ど壊れているがかっては高さ2.5m基礎の幅は3mで実にその長さは4,000kmあったという・・・が今では138kmが残るのみである。

 鳴砂山と月牙泉

 鳴砂山は敦煌市の南5kmのとこにある東西40km南北25kmの標高1200mの岩山に砂漠から運ばれてきた細かい砂が降り積もった所である。ここを外れるとまた岩山が連なっているのである。すなわちここ鳴砂山は砂漠の砂嵐の通り道なのである。

 

鳴砂山と月牙泉への入口

 

鳴砂山の麓まではラクダで行く

鳴砂山

鳴砂山上からの眺め

鳴砂山上からの眺めた月牙泉

鳴砂山上からの眺めた月牙泉

ここの砂は5色赤、黄、緑、白と黒である。ここは山全体が雷のような音を発している事からこの名前が付けられたもので、この山ノ下にはオアシスがありきれいな泉沸き出しておりその泉の形が三日月形をしている事から月牙泉・・・と名前が付けられた。

月牙泉は東西218m南北の最も広い所で54mあり泉の深さは5mある。ここはいままでに1,000年以上に亘り泉がわきだしており、

いまだに砂に埋もれた事もない・・・という。 

 Silk Road 世界遺産 紀行 その1

ご覧頂きまして有難うございました。

つづけて その2 もご覧ください。

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